ドスの効いたハスキーボイスで1970年代に人気を博し、「圭子の夢は夜ひらく」などの代表曲で知られた演歌歌手の藤圭子さん。
本名は「宇多田純子さん」で、宇多田ヒカルさんの母親であることでも有名ですよね。
2013年8月22日に、西新宿6丁目のビルから飛び降り自殺を図り、亡くなっています。
精神の病に侵されていたと言われていますが、どんな人だったのでしょうか?
宇多田ヒカルさんとは仲良くされていたのでしょうか?
本日の記事では、藤圭子さんの若い頃について調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について知ることが出来ます。
- 藤圭子の両親と生い立ち
- 藤圭子の性格
- 藤圭子デビューのきっかけ
- 宇多田ヒカルとの関係性
さらに、藤圭子さんと母親の金銭問題にも触れています。
それでは、どうぞ!
藤圭子の生い立ち
不幸な生い立ちだったと言われている藤圭子さん。
いったいどんな生い立ちだったのでしょうか?
藤圭子の両親
圭子さんの父親は旅回りの浪曲師「阿部壮(つよし)さん」で、母親は、ほぼ全盲の三味線奏者「竹山澄子さん」です。
圭子さんの両親が仕事としていた浪曲とは、三味線を伴奏に独特な節で人情や情緒のある物語を語る語り芸。
浪曲の人気絶頂期は、明治時代から戦前戦後まで続いたようです。
両親と姉、兄、圭子さんの5人家族は、圭子さんが生まれて間もなく北海道名寄市に移住し、北海道や東北を中心として旅先で浪曲を唄い、日銭を稼いでいたそうです。
圭子さん一家が旅回りをしていたのは戦後なので、浪曲の人気は下火になっていた頃。
生活は相当苦しかったでしょうね・・・
圭子さんの両親は、1972年頃に離婚しています。
離婚原因は、圭子さんのお金をめぐって対立した、父親が若い女を作って出ていったなどの噂があります。
また、父親のDVから母親を守るため、圭子さんが別れさせた、といった話もありますね。
どちらにせよ、圭子さんが歌手として成功した頃には、うまくいっていなかったようです。
圭子の若い頃の生活
旅回りでは、お祭り、炭鉱、寺の本堂、旧家の大広間などで浪曲を披露。
家族の暮らしは極貧だったと言われています。
圭子さんも10歳になると、家計を支えるために歌を歌うように・・・
畠山みどりさんの「出世街道」という歌が得意だったそうです。
圭子さんが47歳の、1998年7月9日号の「週刊朝日」のインタビューでは、
子どもの頃から歌が好きと思ったことは一度もなかったんです。歌えなくなって初めて、私は歌が好きだったと気がついたんです。
圭子さんが23歳で手術を受けた、「肥厚性声帯炎」で声が出なくなった時のことを話していますね。
幼い頃から両親と、歌と共に生活をしていた圭子さん。
生活の中に歌があって、生きるために歌ってきたから、好きか嫌いかを考えたことも無かったのでは?なんて思ってしまいますね。
圭子はどんな人だったのか?
「新宿の女」でデビューした当時、まだ18歳だった圭子さん。
勉強が好きで成績優秀だったのに、家族の生活のために高校進学を諦めているそうです。
複雑な気持ちが汲み取れますが、親孝行な圭子さんですね。
ヒット曲連発後にはマンションを建てて、両親や姉夫婦を入居させていたそうです。
下記は、圭子さんが18歳で「圭子の夢は夜ひらく」大ヒット真っ最中の発言。
わたし、世間の人が騒ぐほど苦労なんかしていません。同情されるのってきらい。
27歳でヒット曲がなかなか出ない時期の圭子さんの発言。
(ヒット曲が)なきゃないで結構。どうしようもない、なるようになるのが人生です。
結構サバサバしている性格の女性だったようです。
2013年9月12日の週刊文春では、1988年頃、圭子さんが37歳、娘のヒカルさんが5歳頃の出来事についての記事が出ています。
圭子さんの母親である竹山澄子さんが、圭子さんのギャラを着服していることが発覚し、母澄子さんは、実際には目が見えていたことが分かったという記事でした。
母澄子さんと圭子さんは金銭問題で絶縁しているそうです。
圭子さんは母親との問題で、精神的に危険な状態になり、精神病棟に強制入院していた時期もあったようですね。
圭子さんに対する母親の裏切りが、受け入れられない程ショックだったのは、デビューのきっかけにも関係してくるようです。
藤圭子のデビューのきっかけ
1968年2月の札幌雪祭り歌謡大会に居合わせた作曲家八洲秀章さんに評価されて上京。
しかし、レコード会社6社のオーディションに落ち、生活は東京のネオン街を母親と「流し」をして日銭を稼いでいたとか。
その後、作詞家の石坂まさをさんに出会い、母澄子さんが娘の圭子さんを熱心に売り込んだそうです。
母澄子さんが上京後に必死になって生活を支え、デビューのために猛烈に売り込む姿を知っている圭子さん。
後にギャラの着服で揉めた時には、娘(圭子さん)を幸せにする為ではなく、お金をむしり取る為に一生懸命デビューさせたのか?と不信感を抱いたかもしれませんね。
幼い少女から出るドスの効いた声と、哀愁を感じる歌い方に圧倒された石坂さんの弟子になり、翌年に「新宿の女」をリリースして歌手デビュー。
当時明るい曲ばかりだった時代に、「怨歌」と言われる程ドロドロした歌詞に、圭子さんの人生が重なり、大ヒット連発しました。
藤圭子と宇多田ヒカルの関係性
藤圭子さんは1971年、19歳で演歌歌手「前川清さん」と結婚発表をされていますが、翌年の1972年に離婚し、子供はいませんでした。
歌手を引退したのち、1979年にアメリカに移住し、圭子さんは宇多田照實さんと結婚。
1983年1月19日にヒカルさんを出産しました。
娘の本名の「光」は、「わが子から光が失われないように」と願いを込めて圭子さんが名付けたそうです。
圭子さん自身も網膜色素変性症を患っており、失明の危険性があったからという想いがあったからでしょう。
ヒカルさんが5歳の1988年、母澄子さんとの金銭トラブルが起きてから、攻撃的になった圭子さん。
少しづつ病状が悪化していった圭子さんですが、家族一緒に音楽活動を続けていたそうです。
私(宇多田ヒカルさん)の両親はいつも音楽を作っていて、一緒にスタジオに居ました。彼ら(両親)は私(ヒカルさん)が歌うことをすごく応援してくれたけど、やらされているようで気が乗らないこともあったんです。だんだん自分で書いてみようかなと思いはじめて、やってみたら気に入ったので、続けてきたってところかな
※引用元・小西良太郎著「女たちの流行歌(はやりうた)」産経新聞社”
15歳のヒカルさんは自分の作詞作曲でデビューを果たしました。
家族で歌手活動をしていた圭子さんの攻撃の対象は、母澄子さんから夫照實さん、娘ヒカルさんと広がったとか。
2001年、圭子さんが50歳、ヒカルさんが18歳頃、大きな喧嘩をしてしまったそうです。
出て行って!
それから2人の溝が埋まることは無く、圭子さんの自殺まで没交渉だったようです。
『家には帰れない。娘に嫌われているから』と繰り返していました。ヒカルは本当は話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だったのです」(芸能関係者)”
AERAdot.より引用
お互いに逢いたかったはずの2人ですが、残されたヒカルさんは、やり場のない気持ちで相当苦しい思いをしたのだと思われます。
宇多田ヒカルさんの息子の父親についてと、宇多田ヒカルさんの2人の夫についての記事も書いています
是非ご覧ください↓
藤圭子若い頃まとめ
浪曲師と三味線奏者の娘である圭子さんは、極貧生活の家計を救うため、18歳で歌手デビュー。
圭子さんの性格は、竹を割ったようなサバサバした性格のようです。
引退後はニューヨークへ渡り、宇多田照實さんと結婚し、ヒカルさんを出産しました。
圭子さんは、母親との金銭問題がきっかけで、だんだんと精神的な病気に侵されていったそうです。
ヒカルさんとの間にも、溝が出来たまま亡くなったようです。
ごしこは、記事を書くにあたり、藤圭子さんの曲を沢山聞かせて頂きました。
圭子さんの歌声のファンになったごしこです。
もし、生まれ変わることが出来るとしたら、もう一度歌ってほしいと願ってやみません。
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