酒井法子さんは「のりピー」の愛称で親しまれた往年のアイドル。
覚せい剤事件を起こした事でも有名ですね。
事件をきっかけに、清純派アイドルとして活躍していたにもかかわらず、実は暴力団組長の娘だったことや、壮絶な生い立ちなどが明かされました。
いったいどんな生い立ちなのでしょうか?
本日の記事では、酒井法子さんの生い立ちについて調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について知ることが出来ます。
- 法子の父親は暴力団組長だった
- 法子には母が4人いた!
- 法子と弟の覚せい剤事件の詳細
さらに、法子さんのマネージャーの自殺についても触れています!
それでは、どうぞ!
酒井法子の父親は暴力団組長!
芸能界では、親族の犯罪や暴力団とのつながりをタブーとしていますね。
酒井法子さんの父親は、過激な活動をしていたのでしょうか?
さっそく見ていきましょう!
酒井法子の父親は亡くなっている
酒井法子さんの父親の名前は、「酒井三根城(みねき)さん」。
1989年5月、中央自動車道大月付近で事故を起こし、49歳で亡くなられています。
事故当時、酒井法子さんは18歳で、8枚目シングルで自己最高セールスを記録するなど、トップアイドルとして活躍していた頃でした。
当時のマスコミは家族構成を公表し、葬儀会場に押し掛けたり、事故車両を公開したり・・・
この事件をきっかけに、法子さんの父親についてマスコミが大々的に報道し、実は法子さんが暴力団組長の娘だという事が知れ渡ってしまいました。
法子さんは清純派アイドルだったので、父親の報道は世間を騒がせましたよね!
酒井法子は父親の服役中生まれる
法子さんの父親の酒井三根城さんは、福岡市に勢力を持つ山口組系の伊豆組酒井組の組長で、「酒井峰吉(みねき)」と名乗っていたそうです。
若い頃は凶暴な人物だったことで知られ、法子さんの父親が組長だった時代には、覚せい剤の売買が酒井組の資金源だったようです。
しかし、上位組織の伊豆組は、覚せい剤売買をタブーとしていた様で、後に酒井組は破門処分とされたとか。
破門の時期は分かりませんでした。
酒井法子さんは、1971年に生まれていますが、父親が覚せい剤関係の罪で服役中だったと言われています。
法子さんの芸能界デビューと共に酒井組を引退した父親の三根城さんは、山梨県甲斐市で金融業を始めたそうです。
また、叔父の酒井勧さん、従兄の酒井恵一さんも山口組系暴力団と言われています。
父親の血筋は、暴力団関係者が多いようです。
では、母親はどうでしょうか?
酒井法子の母親は4人いた!
酒井法子さんは、実母のほかに育ての親が3人いるそうです。
それだけでも、複雑な家庭環境だったと想像できますね。
どんな育てられ方をして、現在の酒井法子さんになったのでしょうか?
①酒井法子の実母
酒井法子さんは、1971年2月14日に生まれました。
法子さんの出生時には、父親が服役中だったため、実母は心もとない気持ちがしていたでしょうね。
母親1人で育児をすることになったようですが、すぐに育児放棄に・・・
乳飲み子であった法子さんを、父親の実家である佐賀県のお寺に預け、実母は若い男と駆け落ちしたそうです。
駆け落ちするために、実母が乳飲み子を手放したわけですから、実際には捨てていったと言っても過言ではなさそうです。
その後実母は、法子さんが2歳の時に父親と離婚し、法子さんが4歳の時に亡くなっていると噂されています。
実母の死因は、自殺、自殺に見せかけて父親が殺したなどなど・・・
しかし、2009年9月2日発売の週刊新潮の特集では、実母が生きているとの記事があります。
また、2009年12月の「新潮45」では、継母の独占告白で、法子さんが実母に会った話を掲載しているようです。
なので、実際には生きているのかもしれませんね。
②父親の妹にあたる叔母
2歳で実母に捨てられた法子さんは、7歳まで父親の妹にあたる叔母に育てられることに・・・
叔母は埼玉県狭山市に住んでいたため、法子さんは佐賀県の父親の実家から狭山市へ移されたようです。
2歳だった法子さんは、母親に捨てられたことを知らず、叔母を本当の母親だと信じていたそうです。
法子さんが7歳になったある日、叔母から衝撃告白が・・・
おまえはウチの子じゃないんだよ。本当の父親が引き取りたいと言っているけど、法子はどうしたい?
出所した父親が再婚したことで、法子さんは父親の居る福岡へ行くことになったそうです。
小学生のうちに、実母に捨てられ、母親だと思っていた女性から「うちの子じゃない」と言われた法子さん。
さらに、暮らした覚えのない父親と、会ったことの無い父親の再婚相手と暮らすことになったなんて、壮絶過ぎて言葉も見つかりません。
③父親の再婚相手京子
1978年、法子さんが7歳の頃に父親が再婚した相手は、「吉原京子さん」というそうです。
翌年の1979年には弟の健(たけし)さんが生まれ、妹の順子さんも誕生しています。
順調そうに見える法子さんの父親と京子さんとの結婚生活も、法子さんが中学に上がる前に上手くいかなくなり、離婚したそうです。
④父親の再々婚相手智子
父親の再々婚の相手は、中州でホステスをしていた「智子さん」だそうです。
智子さんは、法子さんが芸能界にデビューする際に付き添っていたので、メディアにもよく顔が出ていました。
福岡市立舞鶴中学校で法子さんは、ソフトボール部に入部したそうです。
ホステスだった智子さんは、どんなに仕事が遅くても、部活で頑張っている法子さんのために、朝晩の食事やお弁当を欠かさず作って法子さんを支えていたそうです。
15歳で酒井法子が芸能界へ
子供のころから歌が好きで、密かに芸能界に憧れていた法子さん。
継母の支えもあったのか、法子さんが14歳の時、1985年10月の「’86 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に出場し、「BOMB!賞」を受賞。
芸能界でデビューすることが決まったそうです。
当時福岡市に住んでいた法子さんですが、上京してからはサンミュージック社長の自宅へ下宿し、世田谷区立千歳中学へ編入。
翌年の1986年のテレビドラマ「春風一番」の収録や、レッスンなど、忙しい毎日を送ることになりました。
法子さんは継母と一緒に杉並区のマンションに住むことになり、高校は堀越学園高等部芸能コースに進学。
一方、父親の酒井三根城さんは暴力団関係から足を洗い、再々婚した智子さんの兄の紹介で山梨県甲斐市に住み、金融業に転業したそうです。
もし父親の転業の理由が、娘の将来を考えてのことであれば、ちょっとイイ話ですね。
18歳で酒井法子の父親死亡
1989年5月17日、父親の酒井三根城さんが、中央自動車道下り線の大月付近で事故を起こし、救急搬送されたそうです。
大月市の富士厚生クリニックに運ばれた三根城さんは、脳挫傷で亡くなりました。
事故当日の法子さんは、東京都江戸川区でテレビの生放送に出演中に事故を知らされ、夜22時頃に駆け付けましたが、三根城さんの体は冷たかったそうです。
当時のテレビは、事故について大々的に報道し、葬儀や告別式に記者がなだれ込んでいました。
三根城さんの愛車はジャガーでしたが、当時乗っていた車は、再々婚した智子さんの車であったこと、元暴力団組長とあって、実は殺されたのでは?などの憶測が飛び交いました。
酒井きょうだいの覚せい剤事件
法子さんには実父の再婚相手との間に生まれた、腹違いの弟と妹がいると報道されています。
弟の酒井健(たけし)さんも、同じ時期に同じ罪で逮捕されているようです。
酒井健と覚せい剤
法子さんの覚せい剤事件の3週間前2009年7月17日、弟の健さんも同じ覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されています。
弟の健さんは山口組系組織の組員で、過去にも3度逮捕歴があるようです。
常習性があるため、執行猶予無しの2年6か月の実刑が下っています。
法子さんの事を裁判中、「家族なので大切な人」と話した健さん。
健さんは獄中から法子さんへの手紙を出していることも分かっています。
「法子姉ちゃんへ」と切り出した手紙には「何かあれば血を分けた自分と妹がいます。きっときっと力になります。負けずに頑張っていきましょう」「オレにできることがあれば何でも言って」
日刊スポーツより引用
法子さんの実父と健さんの母は、健さんが小学校時代に離婚しているので、法子さんと健さんは離れ離れになりましたが、手紙でやり取りをしていたそうです。
酒井法子と覚せい剤
2009年8月3日、夫の高相祐一さんが渋谷区の路上に駐車中の車内で、覚せい剤を持っていたことで逮捕されました。
現場に駆け付けた法子さんは、警察から任意同行を求められましたが、「子供がいるので後で行きます」と拒否し、事件当日から6日間逃亡。
出頭した法子さんは、夫の高相さんに勧められて覚せい剤を使用していたこと、6日間の失踪は覚せい剤を抜くためだったことを供述しました。
法子さんは、懲役1年6か月、執行猶予3年の判決を受けています。
逮捕がきっかけで、高相さんと法子さんの夫婦関係が冷え切っていて、別居していたことや、高相さんに愛人がいた事が発覚。
法子さんと高相さんは、2010年6月協議離婚したそうです。
酒井法子の現在
2024年にデビュー37年を迎えた法子さんは、「ニコニコ生放送」や「YouTube」などで動画配信に挑戦。
香港、台湾、中国での人気がすさまじく、約3万円のチケットが即完売するそうです。
2024年8月に「究極の自然派アンチエイジング治療」を受け、顔や手に赤い斑点が出てしまい、中華圏で心配の声が挙がっているそうです。
自宅は目黒区にある中古マンションで、息子と2人で暮らしているようです。
マネージャー溝口の自殺
法子さんがデビュー前からマネージャーを務めていたのは「溝口伸郎(のぶお)さん」でした。
溝口さんは、法子さんのマネージャーになって14年目の2000年7月、サンミュージック内のトイレで首つり自殺をしてしまったそうです。
溝口さんがベルトで首を吊り、ぐったりしているところを社員が発見し、救急隊が駆けつけましたが、すでに間に合わなかったそうです。
サンミュージック社員の話によると、溝口さんの自殺の原因は借金であり、その借金は法子さんに関係していたそうです。
溝口さんは法子さんのマネジメントに専念するあまり、法子さんにとって有力な人物との接待麻雀にハマり、消費者金融にまで手を出していたそうです。
どうしようもなくなった溝口さんは、サンミュージックに助けを求めましたが、断られたという経緯があったようです。
法子さんは1998年に高相祐一さんと結婚し、翌年に長男の祐樹さんを出産しており、2000年に復帰を計画していた時の出来事だったそうです。
実父が亡くなってから11年・・・
溝口さんを父の様に慕っていた法子さんは、悲報を聞いて号泣したそうです。
酒井法子の生い立ちまとめ
酒井法子さんの父親は暴力団組長で、覚せい剤で服役中に生まれたそうです。
まだ乳飲み子だった法子さんは実母に捨てられ、叔母や実父の再婚相手に育てられ、福岡や埼玉などを転々としていたようです。
父親も18歳で亡くし、結婚相手にも愛人がいたり・・・
2024年で53歳になった法子さん。
まだまだ続く人生、これからの法子さんの幸せを願っています!
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