数々のテレビドラマや映画で絶妙な演技を見せている俳優「田中哲司」さん。
本名のまま芸能活動をしています。
2024年には58歳を迎え、ますます深みのある演技が高評価を得ていますね!
現在では名脇役として有名な俳優さんです。
しかし、若い頃から舞台に立ちましたが、20代ではなかなか売れずに苦労をしたようです。
そんな田中哲司さんは、どんな若者だったのでしょうか?
本日の記事では、田中哲司さんの若い頃を調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について知ることが出来ます。
- 哲司さんの家族と生い立ち
- 哲司さんの学生時代
- 哲司さんが役者を目指したきっかけ
- 哲司さんの現在
記事の中では、哲司さんの心境の変化なども交えながらお伝えしていきます。
それでは、どうぞ!
田中哲司の生い立ち
ご実家は三重県鈴鹿市椿一宮町にあるようです。
哲司さんのご家族はどんな方達なのでしょうか?
小さい頃の哲司さんを見ていきましょう!
田中哲司の家族
ご両親は造園業と養鶏業を兼業している自営業で、兄と姉がいるそうです。
3人きょうだいの末っ子として、1966年2月18日に生まれた哲司さん。
哲司さんの兄とは、年が9歳離れているそうです。
小さい頃の性格は、おとなしく内気な子で、1人でよく絵を書いていた子だったようです。
華々しい芸能界で長年活躍していくとは、この時は思いもせず・・・
毎朝養鶏場に行き、ご自身で2つの卵を食卓まで運び、卵かけご飯を食べていたそうです。
将来は、実家の仕事を引き継ぐんだと、ぼんやり思っていたとか。
ご実家の造園業は「イケダアクト」「法寿園」などと囁かれていますが、真相はわかりませんでした。
哲司さんの父親は64歳で他界し、兄は家業を継いでいるそうです。
哲司さんの姉の情報は、ありませんでした。
すごく仲がいいとか、揉めているなどという話はなかったので、平穏な家庭だったのだと想像できますね!
田中哲司の学校時代
小学校から大学までのエピソードを総まとめしてみました。
大学へ進学するまでの心情の動きも見逃せません!
それでは、どうぞ!
小学校
出身小学校は公表されていませんが、椿一宮町の学区を調べてみました。
現在の学区では、「鈴鹿市立鈴西小学校」か「鈴鹿市立椿小学校」のどちらかかと思われます。
1人で絵をかくのが好きだったというエピソードがありますが、小説もよく読んでいたそうです。
このころから小説の世界をイメージするのが得意だったのかもしれませんね!
中学校
中学校も不明なのですが、哲司さんは公立中学校のようです。
鈴鹿市の現在のHPで確認してみると、哲司さんのご実家の学区は「鈴鹿市立鈴峰中学校」の学区内です。
中学生になった哲司さんは、テニス部に所属し、部活動を頑張っていたそうです。
小学校の頃からの小説好きは健在で、川端康成の短編小説集「掌の小説」が愛読書だったようです。
高校受験の試験科目で唯一得意だったのが「現代国語」だそうですよ!
高校
受験して「海星高等学校」に入学した哲司さん。
最初はサッカー部に入部したそうですが、とてもハイレベルでヨット部へ変更したそうです。
ちょっと幽霊部員に近かったけど。沖まで乗ってって、帆を下ろしてのんびりする。クジラが迷い込んだとかたまにあって、見に行ったりとか。で、レースに出た覚えがない(笑)。あと、南高かどこかの女の人がいて、一緒にやってるのが楽しかった。
海星高等学校同窓会より引用
女の子もいたようで、楽しい部活生活を送ったみたいですね!
哲司さんは当時、バンドもされていたそうで、イギリスのバンド「レインボー」などをコピーしていたヘヴィメタルバンドのベースを担当していたそうです。
ちょっとイメージありませんね!
人前で舞台に立ったのは、文化祭のステージだったようです。
海星高校はキリスト教系の学校で、当時は男子校。
押さえつけられた雰囲気の学校だったようで、インタビューの中では「刑務所にいた気分」と表現されていました。
おかげで、「自由になりたい!」という意識が強くなって、逆に今となっては良かったと語っています。
大学
特に何をしたかったわけでもなかった哲司さん。
自由になるべく、東京へ出たかったそうです。
すご~く、わかります。
「とりあえずバンドやろうかな」と考えた哲司さんは、音響関係の専門学校に進学されました。
飯田橋にあるクレープ屋さんでアルバイトを始めたところ、近くの法政大学のアルバイト仲間がとても大学生を楽しんでいたそうです。
キャンパスライフもいいなぁ
同じ時期に、初めてのJRAのCMに出ていた小林薫さんを見て、一念発起。
あ、カッコいい!こんな人をめざそう!
1年間受験勉強をし、日本大学芸術学部演劇学科に入学しています。
ついに、やりたいことが見つかりましたね!
実家がある三重県から、遠く離れて暮らしていた哲司さん。
お母さんが心配して、食材やお小遣いを送ってくれたエピソードもあります。
役者を目指したきっかけ
役者を目指したきっかけは、大学時代にあったようです。
哲司さんは授業の演技発表で、「華がある」と先生に褒められたことがあったそうです。
そこから役者を目指そうと決心した哲司さん。
2012年のマイナビ転職でのインタビューでは、今思えばかなりひどい演技だったそうですが・・・
役者に向いているのかな?才能があるのかな?
という勘違いから役者を目指すきっかけとなったそうです。
あくまでも本人がインタビューで述べています。
先生は荒削りの光る原石を見たのでは?なんて思ってしまいますよね!
大学2年生の時には、「大学を中退して役者になる」と言いに実家に帰ったことがあったそうです。
しかし、地道に働いている両親の姿をみて、「これ以上わがままは言えないな・・・」と感じ、言わずに東京へ帰ったそうです。
この帰省で、音楽をやりたい、大学に行きたいと金銭面で必要以上に負担を強いていたことに気づいた哲司さん。
24歳で、無事大学を卒業し、役者としての人生が始まりました。
後には引けない、役者として成功しなくては、と感じたのかもしれませんね!
鈍牛倶楽部
卒業後は仲間と劇団を立ち上げたり、有名演出家の舞台に呼んでもらったりしていたそうですが、鳴かず飛ばず・・・
映画やテレビドラマに出たい。その為には事務所に入らないといけない
早く役者で食えるようになりたいのに、なぜこんなにバイトをしなくちゃいけないんだというジレンマもあって。焦っていました。
マイナビ転職より引用
当時の哲司さんは、風呂なしアパートで銭湯に行くお金もなかったとか。
台所の流しで体を洗っていたのに、ある時水道を止められてしまい、哲司さんは外にある隣の洗濯機から水を拝借したこともあったそうです。
そんな中、青山真治監督の映画「Helpless」に出演していた光石さんの演技を見て感動!
なんてうまい役者さんだ。ああ、こんな役者になりたい!
光石さんの所属する鈍牛倶楽部の社長さんに、知り合いを通じて演技を見てもらい、所属することになったそうです。
下記の画像は、片腕の無いやくざを演じる光石研さんです。
以降哲司さんは、徐々に映画やドラマにも出演するようになり、現在の名脇役としての地位を確立しています。
田中哲司の現在
哲司さんは2008年、42歳の頃から、女優「仲間由紀恵」さんと交際を開始。
交際中であった2009年の、「哲司さんの3股疑惑報道」を乗り越え、2014年9月、48歳の時に、女優「仲間由紀恵」さんと結婚しています。
結婚3年目にして哲司さんが不倫相手の自宅へ通う姿が報道されています。
しかし、不倫すら乗り越え、報道翌年に双子の男の子を授かり、現在ではイクメンパパとなっているようです。
田中哲司さんの不倫についての記事も書いています。是非ご覧ください↓
田中哲司若い頃まとめ
5人家族、3人兄弟の末っ子として生まれた哲司さん。
1人で絵をかいたり、小説を読んだりする内気な少年でしたが、進学すると共に、テニス、ヨット、などの部活を楽しんだようです。
特にこれと言ってやりたいこともなかった哲司さんですが、自由になるために上京し、小林薫さんの演技に魅了され演劇学部へ進学。
大学時代から役者になると決めましたが、なかなか芽が出ず・・・
光石さんの演技に魅了され鈍牛倶楽部へ所属し、段々と仕事が増えていったようです。
20歳から演劇を始めて35年以上演技の世界で活躍しています。
ブレずにコツコツと積み重ねていくことが大事だとわかりますね!
これからも、味のある演技を楽しみにしています!
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