「憂愁の貴公子」と呼ばれた俳優の生家は、実は日本映画史そのものと言っていい名門でした。
父は”剣戟王”、兄は名優、弟もベテランの時代劇俳優。
ところが、そんな四兄弟のうち「子どもの頃から俳優になりたかった」のは、たった一人だったそうです。
それを明かしたのは、ほかならぬ田村正和さん本人でした。
華やかな家系図の裏には、意外なほど切実な事情が隠れていました。
本日の記事では田村正和さんの家系図について調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について、知ることが出来ます。
- 【意外】俳優になりたかったのは兄弟でたった一人?名優一家の裏にあった切実な事情とは
- 父の早すぎる死で人生が一変…田村四兄弟それぞれの”その後”
- 80代の兄が墓前で酌み交わした赤ワインと、家族だけが知る田村正和の素顔
それでは、どうぞ!


田村正和の家系図|父・阪東妻三郎と母・静子から始まった田村家
田村正和さんの父は、”剣戟王”と呼ばれた大スター、阪東妻三郎さん。
1901年12月14日に東京・神田で生まれ、実家は木綿問屋を営む商家だったそうです。
「阪東妻三郎」は芸名で、本名は田村傳吉(たむらでんきち)さんなんですね。
代表作は「無法松の一生」や「丹下左膳」など、数え切れないほどありますが、とりわけ語り草なのが1925年の無声映画「雄呂血(おろち)」です。
この作品で阪東妻三郎さんが見せた27分間にも及ぶ大立ち回りは、今も日本映画史に残る名場面ですよね。
実は、この「雄呂血」の撮影現場が、ご両親の出会いの場でもありました。
母の静子さんは、当時ロケ先へお弁当を届けるよう言いつけられて出向いたのですが、それが阪東妻三郎さんとのお見合いだったのだとか。
末弟の田村亮さんが、文藝春秋の記事でそう振り返っているんです。
二人は1927年に結婚。そこから四人の息子が生まれていきます。

写真は左から三男の田村正和さん、阪東妻三郎さん、長男の高廣さん、母の静子さん、次男の俊磨(登司麿)さんです。
家庭での阪東妻三郎さんは、お正月や節分、端午の節句といった行事を張り切って祝う、無邪気なお父さんだったそうです。
近所の子どもたちまで集めて、一緒に喜んでいたと亮さんは懐かしそうに語っていたとか。
銀幕の”剣戟王”のイメージからは、ちょっと意外な素顔ですよね。
さらに田村正和さんには、阪東妻三郎さんと静子さん以外の女性との間に生まれたとされる、異母弟の水上保広さんもいると伝えられています。
1963年に芸能界入りし、時代劇からNHKの朝ドラまで幅広く出演してきた俳優さんなのだとか。
ひとりの父から、四人の兄弟と、さらにもう一人。
田村家の家系図は、思っていた以上に枝分かれが多いんですね。
田村四兄弟の構成|長男・次男・四男、それぞれが選んだ道
田村正和さんは、四人兄弟の三男なんですね。
長男の田村高廣さん、次男の田村俊磨さん、そして四男の田村亮さん。
並べてみると、同じ父を持ちながら歩んだ道がまるで違うのが、この一家の面白いところです。
長男・田村高廣さん|商社マンから”父の跡継ぎ”へ
長男の高廣さんは、同志社大学を卒業して商社に就職した、いわば”堅い道”を歩んでいた人でした。
正和さんによると、ニューヨーク赴任の直前だったのに、父の跡を継ぐ形で俳優の道に入ることになったそうです。
デビューは1954年。
「二十四の瞳」や、勝新太郎さんと共演した「兵隊やくざ」シリーズで実力派として知られ、1980年には日本アカデミー賞助演男優賞も受賞した実力派でした。
正和さんにとって高廣さんは、年が離れすぎていて「兄というより父親代わり」だったと言われています。
中学3年の時、その兄の映画「旗本愚連隊」の撮影現場で勧められて端役に出たことが、正和さんの俳優デビューのきっかけでした。
「右も左も分からない僕を、教えるでもなく、唯、優しく見守ってくれていました。それ以後、あんなに居心地の良い現場で仕事をした覚えがありません」(Wikipedia「田村高廣」より)
その高廣さんは2006年に脳梗塞で逝去。享年77でした。
奇しくも、弟の正和さんが旅立ったのと同じ77歳でした。
次男・田村俊磨さん|俳優の道を選ばなかった”もうひとりの兄”
次男の俊磨さん(登司麿とも)は、1938年の生まれ。
1960年に一度は映画に出たものの、その後は慶應義塾大学経済学部で学び直し、兄弟のマネージャーを務めたと伝えられています。
1980年には「田村産業」(のちのタムサプライヤ)を設立し、実業家として一家を陰から支えたんだとか。
NEWSポストセブンの取材に応じた2021年の時点で、俊磨さんは83歳。
80歳を過ぎても、介護施設の清掃の仕事を続けていたそうです。
その体力仕事を、弟の正和さんはいつも気にかけていたんだそうです。
正和さんの死から数か月後、俊磨さんは横浜の墓前に、弟の好物だったピノ・ノワールの赤ワインを持参。
スマホからポルトガルのファド(アマリア・ロドリゲス)を流して、二人で飲んだのだとか。
派手な芸能一家の陰で、静かに弟を想う兄の姿。
こうした話が出てくるところに、”スターの兄弟”である前に、ごく普通の仲のいい兄弟だったことがにじむ話ですよね。
四男・田村亮さん|7歳で父を亡くした末っ子
1946年生まれの末弟・亮さんは、父の死を、はっきり覚えている年齢でした。
学校で授業を受けていると、小使いさんが先生に何かをそっと耳打ちする。
そのまま帰宅すると、家の奥からは泣いている母の声だけが聞こえていた。
亮さんは、後年そう振り返っているんです。
正和さんによれば、亮さんは大学在学中にアルバイトで俳優を始めた人で、将来は会社員になるつもりだったそうです。
1965年の映画「破れ太鼓」でデビューし、その後は時代劇や2時間ドラマで息の長い活躍を続ける大ベテランです。
亮さんの長男・田村幸士さんも俳優で、阪東妻三郎さんから数えて三代にわたり、田村家は芸能の世界と関わり続けているわけですね。
「俳優になりたかったのは僕だけ」|名優一家の裏にあった事情
1953年7月7日、阪東妻三郎さんは脳内出血のため、51歳の若さで急逝。
このとき、正和さんは9歳、亮さんはまだ7歳。
一家はその後、東京・世田谷の成城へ移り、正和さんは成城学園で学生時代を過ごすことになります。
華やかな名優一家という看板の陰で、四人の兄弟は”父のいない家”で育ったことになります。

そんな中で、正和さんが婦人公論のインタビューで語った言葉が、強く印象に残ります。
「子どもの頃から俳優になりたかったのは、僕だけなんです」(婦人公論より)
長男の高廣さんは商社マンの道を断念して父の跡を継ぎ、亮さんは会社員志望でした。
つまり、四兄弟のうち、本気で俳優を志していたのは正和さんただ一人だったことになります。
ところが、その正和さん自身が、若い頃の自分にはとても厳しい評価を下しているんですね。
親の七光りで主演映画を4本も作ってもらったものの、基礎を学ばないまま出てしまい、「下手なんてもんじゃない」と振り返っているのです。
「あの頃の映画がかかったら、僕は自殺します。ぜっっったいに見られたくない!」(婦人公論より)
名優の息子というだけで主役が回ってくる環境は、本人にとって、ありがたいどころか苦しいものだったのかもしれません。
1961年のデビューから、1972年に「眠狂四郎」で当たり役をつかむまでには、10年あまりの下積みがあったんですね。
原作者の柴田錬三郎さんからは、「最高の眠狂四郎役者」と評されたとか。

血筋で与えられた主役を”恥”とまで思った人が、自分の力で、父と同じ時代劇の頂点に立った。
そう考えると、田村家の家系図でいちばんドラマチックなのは、実は正和さんなのではないかと私は思っています。
阪東妻三郎の”俳優の流儀”は兄弟にどう受け継がれたのか
亮さんは婦人公論のインタビューで、父・阪東妻三郎さんのこんな習慣を明かしているんです。
映画1本分の台詞をすべて完璧に覚えるまで、撮影に入らなかったというんですよ。
亮さん自身も、ドラマ「どてらい男」に出ていた約4年間、一度もNGを出さなかったんだとか。
正和さんも、NGをほとんど出さない俳優として有名でした。
その理由は、「同じセリフは2度言いたくないから」だったとか。
一方で亮さんは、「演技においては完璧主義」だった兄について、「台本を持つと血圧が上がる」と話していたことも明かしているんですね。
「やはり僕ら兄弟は父の血というか、父の役者としてのありようを受け継いでいるのかもしれません」(婦人公論より)
台詞を完璧に覚えて現場に立つ、という父の姿勢が、兄弟それぞれの”NGを出さない”というこだわりになって現れていたわけです。

さらに亮さんは、「派手なことを嫌うのは田村家の人間に共通」とも話しています。
兄・正和さんの葬儀が身内9人だけで営まれたのも、その延長線上にあったのかもしれません。
ただ、「正和さんは家族とも別々に食事をしていた」という報道については、亮さんがはっきり否定しているんです。
実際は、いつも皆で和気あいあいと食卓を囲んでいたそうです。
家を建て替えた時には、ダイニングテーブルの上に降下式の換気扇をつけて、「みんなで焼肉を食べるときに、すごくいいんだよ」と話していたとか。
人前で食事をしないことで知られる正和さんが、家族の前では焼肉を囲んでいた姿。
ミステリアスなイメージとのギャップが、なんとも微笑ましいですね。
正和さんは1970年に一般の女性と結婚し、一人娘を授かりましたが、家族を表に出すことは最後までありませんでした。
「家族を見せない」ことと「家族を大切にしない」ことは別なのだと、こうした証言からは伝わってきます。
田村正和さんの晩年についての記事と、田村正和さんの身長についての記事も書いています!ぜひご覧ください↓


まとめ
田村正和さんの家系図をたどると、阪東妻三郎さんという巨大な父の存在と、その早すぎる死が、四兄弟の人生を大きく動かしていたことが見えてきました。
商社マンの道を断念した長男、実業家として支えた次男、会社員志望だった四男。
そして、子どもの頃から俳優になりたかったのは正和さんだけだったという事実。
血筋に守られていたというより、血筋の重さを引き受けて自分の力で立った人たちの一族だったと、あらためて感じました。
田村家のことを知った上で「眠狂四郎」や「古畑任三郎」を見返すと、あの静かな佇まいに、また違った重みが見えてくるはずです。
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