「晩年の田村正和は隠遁生活だった」──検索すると、そんな言葉が並ぶんですよね。
確かに、最後の連続ドラマは2011年、最後のドラマ出演も2018年でした。
世間が田村正和さんの姿を見なくなってから、ずいぶん長い時間が経っていたんですね。
ところが、成城の朝には、近所の人に自分から「おはようございます」と声をかける田村さんの姿があったとか。
“隠遁”という二文字では、とてもすくいきれない晩年でした。
本日の記事では田村正和さんの晩年について調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について、知ることが出来ます。
- 【真相】隠遁は誤解?成城の朝に目撃されていた”意外な日課”とは
- 死去の公表が1か月以上遅れたのは”遺言”だった…本人が貫いた哲学の中身
- 弟・田村亮さんが明かした、兄との最後の会話と「77歳は気をつけよう」の約束
それでは、どうぞ!


最後の作品「眠狂四郎 The Final」と、田村正和さんが下した”引き際”の判断
田村正和さんが生前最後に出演したドラマは、2018年2月17日に放送された「眠狂四郎 The Final」。
眠狂四郎といえば、1972年にテレビ時代劇の主役をつかんだ、田村さんの代表作。
46年の時を経て、同じ役でドラマ人生を締めくくったわけですね。

ただ、連続ドラマへの出演は2011年の「告発〜国選弁護人」が最後で、2010年ごろから仕事を絞り始めていたとか。
2009年にモンテカルロ・テレビ祭で最優秀男優賞を受けた際のスピーチでは、ここ数年は俳優業の難しさと自分の能力の間で悩んでいた、という趣旨の言葉を口にしていたんですよ。
頂点に立った瞬間にも、自分の演技には満足していなかったんですね。
「眠狂四郎 The Final」の試写を見た時も、「これではダメだと痛感した」とコメントしていたんです。
原作者・柴田錬三郎さんの娘さんへ宛てた手紙には、思うような出来にならなかったことへのお詫びと、これが最後の仕事になるだろう、という趣旨のことを書いたと伝えられています。
弟の田村亮さんが兄と最後に話をしたのも、ちょうどこの頃のこと。
そのとき兄は、「もう、役者は十分やった」と引退宣言とも取れる言葉を口にしていたといいます。(婦人公論より)
体調を尋ねると、返ってきたのは「仕事を休んでいるから、すごく調子がいいんだよ」という答えだったとか。
亮さんにとっては、それが兄とかわした最後の会話となりました。
兄の完璧主義について、亮さんは「台本を持つと血圧が上がる」と言っていたことも明かしているんですね。
一本一本に心血を注ぐ人だったからこそ、「ここまで」と決めた時の線の引き方も、あれほど潔かったのかもしれません。
晩年の田村正和さんは本当に隠遁生活だった?成城での暮らし
2018年以降、田村正和さんは表舞台から姿を消し、東京・成城の自宅で暮らす日々でした。
ただ、”隠遁”という言葉から思い浮かぶ「閉じこもって誰とも会わない暮らし」とは、少し様子が違ったんですね。
毎日30〜60分の散歩と、近所への「おはようございます」
田村さんには、自宅近くの緑地公園まで、毎日30〜60分ほど歩く散歩の習慣があったんだとか。
朝8時ごろにひとりで家を出て、すれ違う近所の人には自分から挨拶をしていたとか。
週刊女性PRIMEの取材に、近所の住民は、亡くなる2か月前にも朝の散歩中に挨拶をしてもらったと話していました。
つまり、亡くなる約2か月前まで、朝の成城を歩いていたんですね。

隠遁どころか、近所の人にとっては”朝の風景”の一部だったのでしょう。
「成城で死にたい」と断った軽井沢の別荘と、家族の食卓
田村さんは軽井沢に、400坪を超える土地と別荘を所有。
晩年は引っ越しも検討したようですが、「成城で死にたい」と言って、その話を断ったと伝えられています。
広い別荘より、住み慣れた街と家を選んだんですね。
家の中での様子について、亮さんは気になる報道を訂正していました。
「家族とも別々に食事をしていた」という話は、「そんなことはない。いつもみんなで和気あいあいと食事していた」というんですよ。
建て替えた自宅のダイニングテーブルの上には、焼肉のために降下式の換気扇までつけた、という徹底ぶり。
人前では食事をしない人が、家族とは焼肉を囲んでいた。
「見せない」と「閉じこもる」は別物なのだと、この対比がよく教えてくれます。
死去の公表が1か月遅れたのは「遺言」だった?本人が貫いた”白いキャンバス”の哲学
田村正和さんは2021年4月3日の午後4時20分、心不全のため、東京都港区の病院で息を引き取りました。
77歳でした。
同じ年の2月には、風邪をこじらせて検査入院していたとも伝えられています。
しかし、その死が世間に伝わったのは、1か月以上あとの5月18日のことでした。
「亡くなっていたことが公表されたのは、1か月以上がたった5月18日でした。プライベートを見せないという“美学”を最後まで貫きました」(週刊女性PRIMEより)
長年マネージャーを務めた男性は、公表の遅れは「本人の遺言だった」と明かしています。
訃報は親しい知人にも知らせず、家族だけで葬儀を済ませたのだとか。
亮さんによると、通夜と告別式は身内9人だけで、お寺のこぢんまりとしたお堂で営まれたんです。
亮さんが兄の死を知ったのは、亡くなってから約2時間後。
妻の和枝さんからの連絡でした。
そこまで徹底した理由は、田村さんが生前、俳優という仕事についてこう考えていたことと重なります。
俳優は「白いキャンバス」であるべきで、私生活を知られると余計な色が付いてしまう。
観客に夢を見てもらう仕事だから、夢を見る余地を残しておくのがサービスなのだ、とも語っていたのだとか。

人前で食事をしないことも、飛行機に乗る時は隣の席のチケットまで押さえていたという話も、同じ哲学の延長線上にあったようですね。
昭和のスターには、こうした”見せない美学”を最期まで貫いた人が他にもいます。
たとえば女優の原節子さんは、2015年9月に亡くなりましたが、その死が公表されたのは2か月半以上あとの11月25日でした。
田村さんの場合は、公表のタイミングまで”遺言”という形で自分が決めていた点が、さらに徹底しているんですよね。
これを「冷たい」と感じる人より、「あの田村正和らしい」と笑って受け止めるファンのほうが多いところに、この人が築いてきたイメージの強さを感じます。
晩年を支えた妻・和枝さんと、横浜に残された墓
田村さんの晩年を語る上で欠かせないのが、3歳年上の妻・矢島和枝さんです。
二人は友人宅のパーティーで出会い、1970年9月に結婚しました。
和枝さんは、銀座の老舗テーラーの社長令嬢。
結婚式は、親族11人と、証人を務めた映画監督・木下惠介さんだけという小さなもので、会場はカトリック田園調布教会でした。
最初の式が親族11人、最後の葬儀が身内9人。
人生の始まりと終わりを、同じ”小さな輪”で締めくくった夫婦だったんですね。

田村さんの死後も、和枝さんは成城の家を守り続け、一人娘さんもよく訪れているのだとか。
近所の方は、和枝さんが朝の散歩中に「お父さんとお母さんは元気?」とにこっと笑って声をかけてくれたことがあると話しています。
田村さんが眠るのは、横浜郊外の霊園。
その墓は、周囲の墓の約5倍という広さで、生前に購入していた”寿陵”だったと報じられています。
霊園との契約で、年5回の草むしりと、毎月の花の取り換えも行われているとか。
2021年8月には、次兄の俊磨さんが、弟の好物だったピノ・ノワールの赤ワインを手に墓前を訪れたそうです。
スマホからファドを流しながら、一緒に飲んだのだとか。
派手な追悼式は開かなくても、家族がそれぞれのやり方で静かに偲ぶ。
田村さんが望んだ”静かな最期”は、残された人たちにも引き継がれているようです。
田村正和さんの家系図についての記事と、田村正和さんの身長についての記事も書いています!ぜひご覧ください↓


まとめ
田村正和さんの晩年は、「隠遁」という言葉から連想されるほど、孤独なものではありませんでした。
毎朝の散歩、近所への挨拶、家族と囲む焼肉の食卓。
その一方で、2018年の「眠狂四郎 The Final」を最後にスクリーンから退き、死去の公表のタイミングまで、自分の意思で決めていました。
白いキャンバスのまま旅立った俳優の晩年を知ってから作品を見返すと、あの涼しい表情に、少し違った奥行きが見えてくる気がします。
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