「喝采」を歌う姿だけを知っていると、ちあきなおみさんを「突然現れた天才」だと思ってしまいがちです。
けれど、スポットライトの下に初めて立ったのは、まだ5歳のときでした。
10代では米軍キャンプやジャズ喫茶、キャバレーを回り、橋幸夫さんやこまどり姉妹さんの前座まで務めていたといいます。
デビューのとき、本人に付けられたキャッチフレーズは「苗字がなくて名前がふたつ」という、ちょっと風変わりなもの。
そんな新人が、わずか3年で日本レコード大賞の頂点に立つことになります。
本日の記事ではちあきなおみさんの若い頃について調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について、知ることが出来ます。
- 5歳で日劇のステージに立った、規格外の少女時代の驚きの中身
- 米軍キャンプ・ジャズ喫茶・キャバレー…10代で積んだ“修行”のリアル
- 「苗字がなくて名前がふたつ」の新人が、たった3年でレコード大賞を獲れた理由
それでは、どうぞ!


ちあきなおみの若い頃、5歳で日劇の初舞台に立った少女時代
ちあきなおみさん(本名・瀬川三恵子さん)は、1947年9月17日生まれ、東京都板橋区の育ち。
3姉妹の末っ子で、母親の影響から4歳でタップダンスを習い始めたんだとか。
そして5歳のとき、日劇のステージで早くも初舞台を踏んでいます。
5歳の子が日劇に立つなんて、今でいう「子役デビュー」どころか、もう「舞台の人」ですよね。
その後は米軍キャンプでもレッスンを重ね、幼いころからジャズに親しんでいったようです。

母親の影響で4歳からタップダンスを習い始め、5歳のときに日劇のステージで初舞台を踏み、その後は米軍キャンプでレッスンを続けたとされています(日本コロムビア公式サイトより)。
周りの子が遊んでいる時間に、ちあきさんは音楽の現場にいた、ということですね。
日劇は当時の日本を代表する大劇場のひとつで、そこに5歳で立つのは、よほどの度胸がなければできないことだったはず。
13歳で歌手活動をスタート、米軍キャンプとジャズ喫茶で鍛えた下積み時代
本格的に歌手として歩み始めたのは、13歳のころ。
このとき歌っていたのは演歌ではなく、ロカビリーなどの洋楽でした。
ロカビリーは当時の若者に大人気だった、エネルギッシュな洋楽ジャンル。
米軍キャンプ、ジャズ喫茶、キャバレーと、舞台はどんどん大人の世界へ。
デビュー前には、橋幸夫さんやこまどり姉妹さんの前座歌手も務めていたとか。
客席にいるのは、お酒を飲みながら歌を聴く大人たち。
そこへ中学生から高校生の年頃の少女が立って、聴き手を振り向かせなければならなかったわけです。
この現場でつかんだ度胸と表現力が、のちの「ちあきなおみ」の土台になったのは間違いなさそうですね。
コロムビアのオーディションは「保留」、そこからの1年4か月
日本コロムビアのオーディションを受けたものの、結果はまさかの保留でした。
そこで作曲家・鈴木淳さんのもとに通い、およそ1年4か月にわたってボーカルレッスンを受けたとか。
声の評価については、デビュー前に指導した作曲家の言葉が残っています。
鈴木淳さんは、ちあきさんの声を「張りがあってハスキーさがプラスされた独自の声」と評し、バイオリンにも似た「名器」の響きがあると称賛したとされています(日刊ゲンダイより)。
「保留」と言われた少女が、そこから黙々とレッスンを続けたわけです。
その粘り強さが、のちの完璧主義につながっていったようにも見えます。
「ちあきなおみ」の名前の由来は意外なところに
芸名の由来は、当時のフジテレビのプロデューサー・千秋予四夫さんの姓を「ちあき」と読ませ、坂本龍馬の諱(いみな)「直柔(なおなり)」から「なおみ」としたもの。
つまり、人名と人名をつなぎ合わせた造語だったんですね。

デビュー当時のキャッチフレーズ「苗字がなくて名前がふたつ」は、この芸名の成り立ちをそのまま表していたことになります。
もうひとつのキャッチフレーズは「魅惑のハスキーボイス」でした。
1969年、21歳で「雨に濡れた慕情」デビューから紅白初出場まで
1969年6月10日、21歳のときに「雨に濡れた慕情」でレコードデビュー。
5歳での初舞台から数えると、およそ16年。
ようやく、念願のレコードデビューにたどり着きました。
翌1970年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、そこから1977年まで8年連続で出場します。
デビューから約1年半での紅白初出場は、10代のころに積み上げた現場経験があったからこそ、と言いたくなる早さ。
1972年「喝采」でレコード大賞、あの名曲が生まれた舞台裏
「喝采」は、1972年9月10日に発売されました。
作詞は吉田旺さん、作曲は中村泰士さんです。
きっかけは作曲家からの「ぜひ書かせてほしい」という熱望
実はこの曲、中村さんが「四つのお願い」などを聴いてちあきさんの歌声に背筋がゾクゾクし、「ぜひ書かせてほしい」とコロムビアの文芸部を訪ねたことから生まれた、と伝えられています。
作る側がここまで惚れ込んだ歌声だった、ということですね。
そこまで言わせる声を、ちあきさんは10代のころから磨き続けていたんですよね。
80万枚の大ヒットと第14回日本レコード大賞
曲の内容は、亡くなった恋人を思いながらステージで歌う歌手を描いたもので、まるで映画のワンシーンのような歌詞が印象的ですよね。
オリコン集計で80万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年の第14回日本レコード大賞を受賞。
同じ1972年の紅白歌合戦でも、この曲を歌っています。
新人の頃は「苗字がなくて名前がふたつ」と紹介された歌手が、デビューからわずか3年で頂点に立ったことになります。

5歳の初舞台から数えれば、約20年。
今になって思うのは、この歌の主人公が「恋人を亡くしても舞台に立つ歌手」だったこと。
のちに夫を亡くしたちあきさんが舞台を去ることを知っていると、この曲は少し違った響きに聞こえてしまうんですよね。
若い頃のちあきなおみが「歌う女優」と呼ばれる理由
ジャズ、ロカビリー、演歌、シャンソン。
ちあきさんの持ち味は、ジャンルを軽々と越えていくところにあるといわれるんですね。
1976年に発売された「矢切の渡し」は、1983年に細川たかしさんが歌って大ヒットした曲として知られていますが、世に出したのはちあきさんが先でした。
1977年には、友川かずきさん作の異色作「夜へ急ぐ人」にも挑んでいるんですよ。
歌謡曲の枠に収まらない曲まで、まるで一本の芝居のように歌い切ってしまう。
だからこそ、1曲ごとに別人のようになる「歌う女優」と評されるのでしょうね。
義兄にあたる宍戸錠さんは、ちあきさんの歌を「美空ひばりより上手い」と語ったと伝えられています。
若い頃から培った現場経験が、そのまま歌の説得力になっていたのだと思うと納得ですね。
NHKでは「ちあきなおみ 〜喝采と沈黙の間で〜」という番組が制作されるなど、その歌声は今も語り継がれているようですね。
2024年6月には、全シングル曲・全オリジナルアルバム曲を含む計425曲の配信も解禁され、若い頃の歌声にもあらためて光が当たっているみたいです。
個人的には、「5歳の初舞台」という数字より、13歳から大人の客席で歌い続けた事実のほうが、この人の強さを物語っている気がします。
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まとめ
ちあきなおみさんの若い頃は、5歳の初舞台から始まり、米軍キャンプやジャズ喫茶での修行を経て、21歳でレコードデビューを果たした、驚くほど濃い道のりでした。
「苗字がなくて名前がふたつ」と紹介された新人が、わずか3年でレコード大賞を手にしたのは、積み重ねた下積みがあってこそ。
次に「喝采」を聴くときは、20年分の舞台経験が詰まった声として聴いてみると、きっと違って聞こえるはずです。
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