「喝采」を歌い、紅白に8年連続で出場し、日本レコード大賞まで手にした歌姫が、ある日を境に静かに姿を消しました。
それ以来30年以上、テレビにも舞台にも、ただの一度も戻らないまま。
引き金になったのは、ヒット曲でもスキャンダルでもなく、たったひとりの男性の死だったと言われています。
「私も一緒に焼いて」と柩にすがって泣いた、という有名な逸話まで語り継がれていますが、実はこの話、一番近くにいた人物が「そんな場面は無かった」と語っているんです。
では、ちあきなおみさんをここまで変えた夫・郷鍈治さんとは、いったいどんな人だったのでしょうか。
本日の記事ではちあきなおみさんの夫について調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について、知ることが出来ます。
- 強面の悪役スターだった夫・郷鍈治さんが、なぜ俳優の看板を下ろして妻の「社長」になったのか
- 「私も一緒に焼いて」は本当にあった場面? 一番近くにいた人物が語る葬儀の真実
- 夫を失ったちあきなおみさんが、30年以上歌わない本当の理由
それでは、どうぞ!


ちあきなおみの夫・郷鍈治とはどんな人?悪役スターだった素顔
芸名、郷鍈治(ごう・えいじ)さんは、1937年5月29日生まれの、大阪府大阪市出身。
本名は瀬川鍈治さんで、もともとの姓は宍戸だったとか。
つまり、ちあきなおみさんの本名・瀬川三恵子さんと同じ「瀬川」姓を名乗った人、ということですね。
日活の悪役スターとして活躍した俳優時代
1960年に日活へ入社して、俳優デビュー。
強面の顔立ちを買われて、ヤクザや殺し屋といった悪役を演じることが多かったようです。

映画では「無頼」シリーズや「直撃!地獄拳」シリーズ、テレビでは『仮面ライダーV3』のキバ男爵や『勝海舟』の近藤勇など、印象的な役を数多く演じた経歴の持ち主です。
画面の中では、とにかく怖い人というイメージが強かったんでしょうね。
兄は宍戸錠、「美空ひばりより上手い」と言った人
実の兄は日活のスターとして知られる宍戸錠さんで、甥にあたる俳優の宍戸開さんも芸能界で活躍しています。
郷さんと錠さんは、『早射ち野郎』など複数の作品で兄弟共演も果たしていたんですね。
その兄・錠さんは、義妹となるちあきなおみさんの歌を「美空ひばりより上手い」と評したと伝えられています。
身内にここまで言わせる歌声だったと思うと、ちあきさんの実力の抜きん出ぶりが伝わってきますよね。
出会いは1973年、兄の紹介から結婚、そして「社長」へ
二人が知り合ったのは1973年、きっかけは兄の宍戸錠さんの紹介だったそうです。
そこから約4年の交際を経て、1978年にゴールイン。
当時のちあきさんは、所属事務所とのトラブルをきっかけに独立し、芸能界で孤立しがちな状況だったとか。
そんなちあきさんを見て、郷さんは大きな決断をします。

俳優の仕事から退き、ちあきさんの個人事務所「セガワ事務所」を設立して、自分は社長兼マネージャー兼プロデューサーとして、支える側に回ったんです。
悪役スターが、ひとりの歌手のために役者の看板を下ろしたという話。
夫婦は東京・広尾に純喫茶「COREDO」も開いていて、郷さんがコーヒーを淹れる店は業界人の溜まり場になっていたとか。
社長で、マネージャーで、プロデューサーで、喫茶店のマスター。
ちあきさんの周りには、いつもどこかに郷さんがいたことになりますね。
悪役という看板があったからこそ、それを下ろす怖さは小さくなかったはずで、私ならなかなか踏み出せないと思います。
ちあきなおみと郷鍈治は「夫婦であり戦友」だった
最後のマネージャーとなった古賀慎一郎さんは、二人を「夫婦であり、戦友だった」と表現。
古賀さんが専属マネージャーになったのは1991年8月、24歳のとき。
つまり郷さんが亡くなる約1年前から、夫婦をすぐそばで見ていた人物。
古賀さんの著書『ちあきなおみ 沈黙の理由』(新潮社)を紹介した書評では、二人は生活感がなく、ティーンエージャーのように純なカップルで、お互いにとってお互いがすべてという関係だったと説明されています(日刊ゲンダイより)。
書評では、郷さんが演出する舞台でしか歌えない状態だった、という古賀さんの見立ても載っています。
ちあきさん自身も「音符の読めない歌手は歌手ではない」と語るほど、歌に厳しい人だったとか。
歌に妥協しない妻と、その舞台を丸ごとプロデュースする夫。
悪役を捨てて黒子になった郷さんと、その黒子のおかげで思いきり歌えたちあきさん。
甘い夫婦像より、お互いの「相棒」を選んだ結婚だったという見方のほうが、この二人にはしっくりくる気がします。
1992年9月11日、郷鍈治さんの死と「一緒に焼いて」の逸話
1992年9月11日、郷鍈治さんは国立がんセンターで息を引き取りました。
死因は肺がんで、55歳という若さでした。
結婚から14年、出会いからは19年目の別れです。

「私も一緒に焼いて」は本当にあった場面なのか
ちあきさんが柩にしがみつき、「私も一緒に焼いて」と号泣した、という話はあちこちのサイトで語られているようですね。
ところが、マネージャーだった古賀慎一郎さんは、まったく違う証言をしています。
古賀慎一郎さんによれば、葬儀の場でそのような言動は無かったとのことです(Wikipediaより)。
一方で古賀さんの著書には、ちあきさんが密葬を望み、長い髪を切ったという記述があるのだとか。
誰かが実際に見た場面ではないのに、これほど広まったのは、ちあきさんの悲しみ方が「そう言われても不思議はない」ほど深かったからなのでしょう。
ただ、柩にすがって泣くより、黙って髪を切り、人目を避けて見送るほうが、あの夫婦にはずっと似合うように感じるんですよね。
本人が残した唯一の言葉「静かな時間を過ごさせて下さいます様」
郷さんの死後、ちあきさんは短いコメントを発表しています。
ちあきなおみさんは「静かな時間を過ごさせて下さいます様」というコメントを発表しました(Wikipediaより)。
引退するとは、ひとことも言っていません。
それでも、これを最後に歌手活動を含む芸能活動のすべてを止めてしまったんですね。
テイチク時代最後のシングルは、1991年10月発売の「紅い花」だったとか。
ちあきなおみが歌をやめた理由は?30年以上続く沈黙
その理由について、古賀さんの著書を紹介した書評には、印象的な言葉が出てきます。
古賀さんによれば、ちあきさんは「ちあきなおみはもういないのよ」と述べ、実際に芸能活動をやめてしまったとのことです(日刊ゲンダイより)。
郷さんがつくった舞台でしか歌えなかった人が、その作り手を失った。
悲しみだけではなく、「歌う場所そのものがなくなった」という感覚のほうが近かったのかもしれませんね。
実は郷さんが亡くなる3年前、1989年1月には、母親も他界していたんです。
母、そして夫。
大切な人を立て続けに見送ったことになりますね。

郷さんは瀬川家(ちあきさんの実家)の墓に一緒に葬られていて、ちあきさんは墓のある寺の近くのマンションに住み、盆・彼岸・月命日の墓参りを欠かさないのだとか。
歌わなくなった代わりに、墓前へ通い続ける暮らし。
墓前に通い続けることが、今のちあきさんにとっての「活動」そのもの。
私は、歌をやめたことよりも、お墓に通い続けていることのほうに、ちあきさんの本音が出ている気がします。
沈黙のあとも色あせない存在感、2024年の配信解禁
2024年6月10日、デビュー55周年を記念して、全シングル曲・全オリジナルアルバム曲にライブ音源を加えたのべ425曲のデジタル配信がスタート。
長いあいだ聴く手段が限られていた歌声が、スマホ一台で聴けるようになったんですよ。
同じ2024年には、NHK BSの「The Covers」やBSテレ東の特番でも、55周年が特集されたようですね。
それでも、本人は復帰を求める声や音楽関係者の説得に応じていないとのこと。
同じ歌の世界から表舞台を去った人といえば、結婚を機に引退した山口百恵さんが思い浮かびます。
山口さんの引退が「新しい人生の始まり」だったのに対して、ちあきさんの沈黙は大切な人を失った喪失から始まっていて、同じ「去る」でも向きがまったく逆に見えます。
2026年のいま、ちあきさんは79歳で、いたって健康とのこと。
ちあきなおみさんの娘についての記事と、ちあきなおみさんの若い頃についての記事も書いています!ぜひご覧ください↓


まとめ
ちあきなおみさんの夫・郷鍈治さんは、悪役スターの看板を下ろして、妻の社長兼マネージャーになった人でした。
「私も一緒に焼いて」の逸話は、一番近くにいたマネージャーが「そんな場面は無かった」と語っているようです。
それでも、髪を切って密葬を望んだという静かな事実のほうが、二人の絆をよく物語っているのではないでしょうか。
ちあきさんの沈黙は、歌をやめたというより、自分の舞台をつくってくれた人を失った、静かな時間なのかもしれません。
ステージの上の歌姫より、墓前に通い続ける一人の妻のほうが、今のちあきなおみさんの素顔に近いのでしょうね。
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