ブロマイドの売り上げが、2年連続で日本一になったアイドルがいたとか。
1970年代後半、お茶の間の視線を独り占めにしていたのは、まだ10代だった大場久美子さん。
「一億人の妹」と呼ばれた笑顔の持ち主は、実は「ずっとマイナス思考だった」と自ら明かしています。
しかも国民的ヒロインの座をつかんだのは、オーディションで緊張のあまり歌えず、悲しそうな顔をしてしまった日のことでした。
明るい笑顔と、陰のある素顔。その落差こそが、昭和のトップアイドルを生んだのかもしれません。
本日の記事では大場久美子さんの昔について調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について、知ることが出来ます。
- 「プリンの女の子」から一気にトップへ!子役時代の知られざる下積みとは?
- オーディションで歌えず悲しい顔…それが合格の決め手だった!?「コメットさん」抜擢の舞台裏とは?
- 人気絶頂の19歳で歌手を辞めた本当の理由とは?レギュラー7本、司会のトラウマの裏側とは?
それでは、どうぞ!


大場久美子の昔は「プリンの女の子」|子役から歌手デビューまで
大場久美子さんは1960年1月6日、埼玉県川口市の生まれです。
3人きょうだいの長女として育ち、芸能界への扉を開いたのは1970年、10歳のときでした。
10歳でオーディション合格、そこから7年近い下積み
友人が応募してくれた東京宝映テレビのオーディションに、見事合格したんですね。
1973年には同社の「劇団フジ」に入り、子役としての活動をスタート。
1974年には日本テレビ系「愛の山河」でテレビデビュー。
転機が訪れたのは1975年。NET(現・テレビ朝日)の「あなたをスターに!」で審査員特別賞を受賞し、芸能プロダクション「ボンド企画」にスカウトされたとのこと。

堀越高校に在学しながら、いよいよ本格的な芸能活動がスタート。
7年近く続いた子役としての下積みが、ようやく実を結び始めた瞬間なんですね。
ただ、1970年代は、SNSで話題を作れる今とは違い、劇団やオーディションといった地道な場所からチャンスを探すしかない時代だったんですね。
途中で諦めても不思議ではない長い道のりを、10代の少女が歩き続けたことになりますね。
「クミコがプリンになった」16歳の素顔
1976年、映画「遺書 白い少女」で映画デビューを果たすと、ハウス食品のプリンのCMで一気に注目を集めることに。
1977年3月30日付の東京スポーツには、まだ「一億人の妹」と呼ばれる前の大場さんのインタビューが載っているんですよ。
当時16歳の高校2年生。女子高に通い、話題の中心は共演した三浦友和さんだったとか。
「クミコって呼ばれていたのが最近はプリン、プリンと呼ばれているの」と笑顔で話していたとのこと。
一人歩きが好きで、街で「プリンの女の子」と声をかけられることが多かったものの、しつこい誘いは断っていたとか。

そして1977年6月5日、東芝EMIから「あこがれ」で歌手デビュー。同期には荒木由美子さんや榊原郁恵さんといった顔ぶれ。
翌7月に公開された大林宣彦監督の映画『HOUSE』では、夢見る少女「ファンタ」役に大抜擢。
7人の美少女が次々と家に食べられていくホラー作品で、ファンタは最後に食べられる役だったみたいですね。
CM、映画、歌手と、わずか1年ほどで一気に露出を増やした勢いは、まさに「彗星のように現れた」という表現がぴったりな勢いだったんですね。
個人的には、街で「プリンの女の子」と呼ばれることを嫌がらず、しつこい誘いだけをきっぱり断っていた16歳の対応に、芯の強さを感じます。
二代目コメットさんに抜擢!オーディションで「歌えなかった」日の逆転劇
大場久美子さんの名前を全国区にしたのは、1978年にTBS系で放送されたドラマ「コメットさん」です。
第2期となるこのシリーズで、2代目のヒロイン・コメットを演じました。放送は全68話。抜擢されたのは18歳のとき。
ところが、この大抜擢の裏には、意外なオーディション秘話が。
週刊女性PRIMEの取材で、大場さん本人が語った内容によると、審査では持ち歌「大人になれば」をアカペラで歌うよう求められたとか。
ところが緊張のあまり、歌えなくなってしまったといいます。
悲しそうな顔をしていた大場さんに、制作側は「その表情がいい」と注目し、そのまま合格が決まったとか。
制作陣が探していたのは、他人の痛みがわかる「陰のある」女の子だったと言われているようですね。
明るさだけが売りではなかったからこそ、のちに国民的ヒロインになれたのかもしれません。
歌えなかった失敗が、結果的に最大の武器になるというのは、なんとも運命的な話ですよね。
「コメットさん」のヒットで、大場さんのブロマイドは爆発的に売れました。東京スポーツは、2年連続でブロマイド売り上げナンバーワンを記録したと伝えているんですね。
Wikipediaなどの記載では、年間ランキングで1978〜1980年に連続してベスト10入りしたとされており、どの数字で数えても、トップクラスの人気だったことは間違いありません。
男子のファンだけでなく、中高年の男性までが夢中になった、という話も。
「一億人の妹」というキャッチフレーズは、この頃に広く定着していきました。
レギュラー7本、19歳で司会に!トップアイドルが抱えていた素顔
1979年3月5日には、7枚目のシングル「スプリング・サンバ」を発売。オリコン最高44位、売り上げは約3万枚で、自身最大のヒット曲となりました。
数字だけを見ると、爆発的な大ヒットには見えないかもしれません。
その理由を、本人はこう語っています。当時はレギュラー番組を7本ほど抱えており、ベストテン系の歌番組に出る時間がなかったのだとか。
19歳のときには、日本テレビ系「NTV紅白歌のベストテン」の司会にも抜擢され、半年間を務めたんですね。
ただ、本人にとって司会は大の苦手だったと振り返っているんですね。
台本は暗記して臨みましたが、曲名を間違えたりアクセントがずれたりすると、歌手の方ににらまれたり、マネージャーが飛んできたりして、いつも緊張していたとか。
そのトラウマから、現在も放送されている有名な歌番組の司会を断ったこともあるのだとか。
楽屋では一人で編み物…「ずっとマイナス思考」だった少女
輝かしい笑顔とは裏腹に、大場さんは自分のことを「ずっとマイナス思考だった」と語っていたんですね。
楽屋では自分から輪に入らず、スタジオの隅で一人、本を読んだり編み物をしたりしていたとのこと。
その態度が、周囲には「生意気」「機嫌が悪い」と受け取られることもありました。
そこで印象を和らげるために、歯を見せて笑顔を作る努力を重ね、「笑っていることがクセになりました」と話しています。
のちに女性セブンの取材でも、アイドル時代は「ぶりっ子」と言われ、心ない批判を受けたと語っています。
それでも「芸能界でど根性が備わった」と前向きに受け止めているところが、大場さんらしいところです。
作られた笑顔が、いつしか本物の笑顔になっていった。そう考えると、あの国民的スマイルの見え方が少し変わってきます。
堀越高校からの親友・林寛子さんとの絆
大場さんが芸能活動を続けるうえで、欠かせない存在がいます。堀越高校時代からの親友、林寛子さんです。
2014年には、二人でコンビを組み、「キングオブコント2014」に出場しました。結果は2回戦敗退でしたが、50代半ばでお笑いの大会に挑む姿が話題に。

10代の頃に、同じ時代の荒波を一緒に乗り越えた仲間だからこそ、何十年たっても全力で遊べる関係でいられるのでしょう。
人気絶頂の「さよならコンサート」|大場久美子が歌手をやめた理由
1979年10月19日、日本武道館で「さよならコンサート」を開き、いったん歌手活動を終えます。
人気絶頂のタイミングだけに、当時のファンにとっては衝撃的な出来事だったはずです。
その理由は、週刊女性PRIMEの取材で本人が語っています。もともと歌手は「2年間だけ」の予定だったというのです。
「NTV紅白歌のベストテン」の司会を半年務めて卒業するのと同時に、歌手活動も卒業しました。
大場さんは、もともと俳優志望でした。歌手活動は、最初から期限付きだったことになりますね。
また、歌については批判の声もありましたが、下手と言われたことはないと語っています。卒業のころは、声がよく出ていると感じていたんだとか。
山田邦子さんが、音程を外した形で自分の曲をモノマネしていたことにも触れています。
ご本人にとっては、あのモノマネは少し不本意だったのかもしれませんね。
その後、1984年7月25日には「悲しみ貯金箱」で歌手活動を再開。
歌手を辞めたあとも、テレビドラマや舞台など、女優としての活動は途切れることなく続きました。

2009年には心理カウンセラーの資格を取得し、2020年11月からは俳優業と並行してYouTuberとしても活動をスタート。
週刊女性PRIMEのインタビューでは、大場さんが歌手活動を「2年間」と決めていた理由や、当時の司会のトラウマが語られている(週刊女性PRIMEより)。
歌手は2年間と決めていた潔さこそが、大場久美子さんが半世紀近く表舞台に立ち続けている理由なのかもしれません。
人気が最高潮のときにあえて一区切りをつけ、その後も女優、カウンセラー、YouTuberと形を変えながら進み続けてきました。
個人的には、「ずっとマイナス思考」と語る人が、人気絶頂の19歳で自分の意思でステージを降りたという事実に、強い意志の力を感じます。
マイナス思考だからこそ、先のことを冷静に考え、引き際を見極められたのではないでしょうか。
大場久美子さんの現在の夫の記事と、病気の記事も書いています!ぜひご覧ください↓


まとめ
ここまで、大場久美子さんの昔について、子役時代から歌手引退までを見てきました。
10歳でのオーディション合格から7年近い下積みを経て、「プリンの女の子」として注目され、1977年に「あこがれ」でデビュー。
翌年にはオーディションで歌えなかった悲しい顔が決め手になり、「コメットさん」の2代目ヒロインに抜擢されました。
ブロマイドは2年連続1位と伝えられ、トップアイドルの座へ。それでも本人は「ずっとマイナス思考」だったと振り返っています。
明るい笑顔の裏にあった素顔を知ると、大場久美子さんの昔の姿が、また違って見えてきそうですね。
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