有馬稲子の若い頃は宝塚の”三人娘”だった?銀幕の女王へ駆け上がった壮絶な軌跡

有馬稲子若いころ画像

「東京暮色」で見せた憂いを帯びた表情、「人間の條件」で見せた芯の強さ。

スクリーンの中の有馬稲子さんは、いつも何かを堪えているような目をしていました。

しかしその瞳の奥には、宝塚時代からずっと積み重ねてきた覚悟が隠れていたのかもしれません。

昭和を代表する大女優は、決して恵まれたスタートを切ったわけではなかったのです。

有馬稲子さんの若い頃を辿ると、そこには壮絶な家庭環境と、それをはね返すための必死の選択がありました。

本日の記事では有馬稲子さんの若い頃について調べてまとめてみました。

この記事を読めば、下記の内容について、知ることが出来ます。

  • 壮絶すぎる生い立ちと、宝塚を目指した本当の理由とは?
  • “宝塚三人娘”と呼ばれた知られざる実力の秘密とは?
  • 銀幕の女王へと駆け上がった運命の転機とは?

それでは、どうぞ!

目次

有馬稲子の若い頃|父の暴力から逃れた壮絶な少女時代

有馬稲子さんは1932年4月3日、大阪府に生まれました。

本名は中西盛子さんといい、わずか4歳のときに事情があって韓国・釜山にいた父方の伯母のもとへ養女に出されています。

物心つく前に生まれ育った土地を離れることになった有馬さんですが、釜山での暮らしは比較的裕福なものだったとも伝えられています。

実の両親と離れて暮らす複雑な立場でありながら、幼少期の有馬さんは伯母のもとで大切に育てられていたようです。

漁船で命がけの引き揚げ、そして父からの暴力

1945年の終戦後、有馬さんは漁船に紛れて軍の監視の目をかいくぐりながら、命がけで日本へ引き揚げてきたといいます。

当時の朝鮮半島から日本への引き揚げは、多くの人が命を落とすほどの過酷な道のりだったとされ、幼い有馬さんにとっても相当な恐怖体験だったはずです。

有馬稲子画像2
テレ朝ポストより引用

ようやく戻った日本での生活も、決して穏やかなものではなかったようです。

実の父親から日常的に暴力を受けていたとされ、家を出ることばかり考える少女時代を過ごしていたのだとか。

そんな有馬さんにとって芸事の世界は、自分の人生を自分の手で選び取るための、唯一の希望だったのかもしれません。

後年になって振り返ったインタビューでも、この時期の記憶については多くを語りたがらない様子がうかがえ、それだけ深い傷として残っているのではないかと感じます。

華やかな女優人生の出発点に、これほど過酷な少女時代があったことを知ると、スクリーンの中の憂いを帯びた表情にも、また違った見方ができそうです。

狭き門をくぐり抜けた宝塚音楽学校合格

1948年、有馬さんは倍率の高い宝塚音楽学校の入学試験に見事合格します。

家庭の事情を知る周囲からすれば、驚きの決断だったかもしれませんね。

FBより引用

翌1949年に初舞台を踏み、成績はなんと63人中9位という好成績だったそうです。

宝塚音楽学校は当時も今も全国から実力者が集まる狭き門で、入学試験の段階からその美しさと才能が話題になっていたともいわれています。

過酷な家庭環境をばねに変え、努力を惜しまなかった証と言えそうです。

宝塚時代のこうした積み重ねがなければ、後の銀幕での活躍もなかったのではないでしょうか。

“宝塚三人娘”から銀幕の女王へ―東宝で掴んだ黄金時代

宝塚時代の有馬さんは、新珠三千代さん、八千草薫さんとともに「宝塚三人娘」と呼ばれ、早くから注目を集める存在だったといいます。

在団中の1951年には、東宝映画『寳塚夫人』でスクリーンデビュー。

同期の2人がその後も女優として長く活躍を続けたのに対し、有馬さんは早々に映画界のもっと奥深くへと踏み込んでいくことになります。

22歳で挑んだ「にんじんくらぶ」という大きな賭け

1953年、有馬さんは宝塚歌劇団を退団し、東宝の専属女優としての道を歩み始めました。

そして22歳という若さで、女優の岸惠子さん、久我美子さんとともに独立プロダクション「にんじんくらぶ」を設立します。

当時の映画界は大手映画会社の力が絶対的で、女優が出演作品を自由に選ぶことなど許されない時代だったようです。

にんじんくらぶ画像
Amazonより引用

そんな中で自分たちの意思で映画をつくろうとした3人の行動は、相当な覚悟を要するものだったに違いありません。

会社側からすれば看板女優が独立の動きを見せたようなもので、当時の映画界にとってはかなりの衝撃だったとも伝えられています。

「にんじんくらぶ」はその後、『乳母車』をはじめとする話題作を自主製作で世に送り出し、女優が自らプロデュースする映画づくりの先駆けとなりました。

もっとも、大手映画会社を敵に回しての自主製作は資金繰りも厳しく、長くは続かなかったとも言われています。

それでも、女優が会社の言いなりにならず自分たちの手で作品を選ぶという発想自体が、当時としては非常に先進的だったのは間違いありません。

個人的には、当時まだ20代前半だった3人が、所属していた会社を敵に回してでも自由を選んだ度胸に、率直に驚かされます。

『東京暮色』『人間の條件』で掴んだ銀幕の頂点

1957年には小津安二郎監督の『東京暮色』に出演し、憂いを帯びた次女・明子役を演じきりました。

そして1960年、五味川純平の小説を原作とした大作『人間の條件』にヒロインとして出演します。

この作品での演技が高く評価され、ヴェネツィア国際映画祭で銀賞を受賞しています。

日本経済新聞のインタビュー記事では、有馬さんが『東京暮色』の現場について、小津安二郎監督の細やかな演出に何度も驚かされた撮影当時の様子を振り返っている(日本経済新聞より)。

宝塚の一娘役から世界に認められる大女優への道のりは、まさに壮絶な下積みの先にあった結晶だったのでしょう。

その後も有馬さんは、木下惠介監督や成瀬巳喜男監督といった日本映画を代表する巨匠たちの作品に次々と起用され、名実ともに銀幕の女王としての地位を確立していきます。

宝塚の同期だった新珠三千代さん、八千草薫さんがそれぞれ独自の路線で女優人生を歩んだのに対し、有馬さんは自ら製作にまで踏み込んだ点で、一線を画す存在だったと言えそうです。

舞台『はなれ瞽女おりん』を後年25年間も演じ続けることになるのも、この頃すでに培われていた、一つの役に深く向き合う姿勢の延長線上にあるのかもしれません。

父の暴力から逃げるようにして選んだ宝塚という道が、結果として日本映画史に残る大女優を生み出したのですから、人生とは分からないものです。

何気ない選択の積み重ねが、後の大きな飛躍につながっていたのかもしれませんね。

有馬稲子さんの夫についての記事と、老人ホームについての記事も書いています!ぜひご覧ください↓

まとめ

ここまで、有馬稲子さんの若い頃について、生い立ちから銀幕の女王になるまでの軌跡を見てきました。

父の暴力から逃れるための宝塚受験、そして仲間との「にんじんくらぶ」設立など、有馬さんの選択には一貫して”自分の人生を自分で決める”という強い意志が感じられます。

苦しい環境に置かれても流されるままにならず、自分の意思で次の一歩を選び続けてきたことこそが、有馬稲子さんを大女優たらしめた最大の理由なのかもしれません。

今後もさらなる有馬稲子さんの情報が入り次第、追記していきますね。

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