テレビをつければ、女子アナウンサーがひな壇の真ん中で誰よりも輝いていた時代がありました。
その空気を全国に広げたのが、フジテレビの同期入社トリオ「花の三人娘」です。
一角を担っていたのが、2018年に52歳で世を去った有賀さつきさん。
長身の帰国子女で、それでいて少しだけおっちょこちょい。
「間違えてもカワイイ」がまだ通用していた、あの時代そのものみたいな人でした。
本日の記事では、有賀さつきさんの若い頃のエピソードや「花の三人娘」時代の人気ぶりについて、当時の報道をたどりながらまとめてみました。
この記事を読めば分かることはこちらです。
- 「花の三人娘」で有賀さつきが担っていた“意外なポジション”
- 語り草になった「旧中山道」読み間違い事件の、その後
- ベンツ通勤で号泣謝罪…令和なら大炎上必至の若い頃エピソード
それでは、どうぞ!


有賀さつきの若い頃は「花の三人娘」の末っ子ポジション
有賀さつきさんがフジテレビに入社したのは1988年の春。
同期には河野景子さんと八木亜希子さんがいて、この3人が「花の三人娘」と呼ばれました。
入社年の和暦をとって「花の63年組」と紹介されることもあったようです。
女子アナという言葉が一気に全国区になったのは、まさにこの世代から。
三人娘の中で、才媛イメージの河野さん、しっかり者の八木さんに対し、有賀さんは末っ子キャラ。
身長170センチの帰国子女という華やかな肩書きを持ちながら、立ち位置は「ちょっと抜けている愛されキャラ」だったんですね。
日刊ゲンダイは有賀さんを「アイドルアナの先駆け」と振り返っています。

ニュースを読む人というより、バラエティのひな壇で輝く人。
いわゆる“バラアナ”の元祖のような存在だったんですね。
個人的に面白いのは、三人娘それぞれのキャラがきれいに分かれていたこと。
狙って売り出したのか、たまたまそうなったのか。
どちらにせよ、局が「女子アナはキャラで見せる」と発見した瞬間だった気がします。
ちなみに有賀さんは、愛知県名古屋市の生まれ。
5歳から8歳までニューヨークで暮らした帰国子女で、都立九段高校からフェリス女学院大学の英米文学科へ進みました。
高校3年生のときには文化放送のオーディション番組でパーソナリティを務め、コンテストで準優勝もしています。
つまり「話す仕事」で勝負すると、学生時代から決めていた人だったんですね。
若い頃の有賀さつきを有名にした「旧中山道」の漢字読み間違い
有賀さつきさんの名前を語るとき、必ず出てくるのが漢字の読み間違いです。
中でも有名なのが「旧中山道」をめぐる一件。
正しくは「きゅうなかせんどう」なのですが、有賀さんは番組で「この“きゅうちゅうさんどう”ですよね」と、自信たっぷりに読み間違えてしまったと伝えられています。
日刊ゲンダイによると、この一件から「女子アナは間違えてウケる」という風潮が広まったとされています。
つまり有賀さんは、失敗が芸になる女子アナ像を作った張本人でもあったわけですね。
本人もそこは負けん気があったようで、その後漢字検定準1級を取得しています。
笑われて終わりにせず、資格でやり返すあたりが有賀さんらしいところ。

ちなみに高校3年生のときにはラジオ番組のオーディションで準優勝しており、もともと言葉で勝負する人ではありました。
読み間違いは天然だったのか、計算だったのか。
今となっては確かめようもありませんが、少なくとも「ミスをおいしく変える」度胸は本物だったのだと思います。
令和では大炎上…若い頃の有賀さつきの“バブル武勇伝”
有賀さつきさんの若い頃のエピソードには、今の基準では考えられないものがいくつもあります。
関係者の証言として伝わっているものを、いくつか見ていきましょう!
ベンツ通勤を叱られて号泣、そして可愛がられる
サイゾーの記事によると、有賀さんは局の車通勤禁止ルールを無視して、自分のベンツで通勤していたそうです。
先輩に叱られると「大げさに号泣して謝る」ため、逆に年配の上司たちに可愛がられていたのだとか。
怒られているのか、甘えているのか分からない。
この距離感が許されたのが、当時のテレビ局でした。
生放送のミスも「カワイイ」で押し切れた時代
『スーパータイム』のレポーターだった頃、原稿を読み間違えて泣き出しても、それで済まされていたと報じられています。
上司は「有賀の持ち味」と言って、むしろ庇っていたようです。
生放送の失敗が「カワイイ」と褒められる。
今のSNSに置いたら、一晩でトレンド入りしてしまいそうな話ですよね。
こうして並べると、有賀さんは実力で守られたというより、時代の空気に守られていた人に見えます。
ただ、その空気を一番うまく乗りこなしていたのも、また有賀さん。
愛されキャラを演じ切る、というのも立派な才能なのだと思わされます。
若い頃の有賀さつきと「女子アナ本」ブーム
有賀さつきさんの若い頃を語るうえで外せないのが、いわゆる「女子アナ本」の存在です。
1987年に『アナ本』、1991年には『アナ本2』というムックが発売され、フジテレビの女性アナたちが誌面を飾りました。
『アナ本2』の表紙は、当時としてもかなり攻めた内容だったと伝えられています。
今の感覚で見れば、局が主導して女性アナをアイドルのように売り出していたわけですよね。
後年、この時代のカレンダーや誌面は「女子アナのアイドル売り」だったと問題視されるようにもなりました。
有賀さんは、その流れのど真ん中にいた一人。
本人がどこまで乗り気だったのかは、今となっては分かりません。
ただ、売り出され方に振り回されず、数年で局を飛び出したところに、有賀さんの意思を感じます。
“アイドルアナ”というレールを、自分から降りてみせた人でもあったわけです。
引退と再開を繰り返した有賀さつき、若い頃からのマイペースぶり
華やかに見えた有賀さつきさんですが、キャリアはまっすぐではありませんでした。
フジテレビを退社したのは入社からわずか4年後の1992年10月。
翌1993年からフリーとして活動を再開し、『ミュージックステーション』のサブ司会などを務めます。
ところが2000年には芸能界を一度引退。

理由は「翻訳の勉強をするため」だったと伝えられています。
そして2002年、今度は結婚と出産をきっかけに活動を再開しました。
サイゾーの記事では、関係者が有賀さんを「良くも悪くも、超マイペースな人」と評しています。
政界進出のオファーも断り、信頼できる相手からしか仕事を受けなかったとも。
友人とも半年ほど音信不通になることがあったというので、かなり徹底しています。
売れている時期にあっさり立ち止まれる人は、そう多くありません。
有賀さんの若い頃を振り返ると、天然キャラの裏に、自分のペースを絶対に譲らない芯の強さがあったのだと感じます。
同期の河野景子さんは、のちに大相撲の元横綱・貴乃花と結婚。
八木亜希子さんは今も落ち着いた語り口で第一線に立ち続けています。
三人娘のその後を並べてみると、進んだ道はまるで違いました。
華やかに始まった同期の物語が、これほどバラバラの結末に分かれていくのも、なんだか芸能界らしいなと思います。
有賀さつきさんの旦那についての記事と、有賀さつきさんの娘についての記事も書いています!ぜひご覧ください↓


まとめ
有賀さつきさんの若い頃について、当時の報道をたどりながら振り返ってきました。
「花の三人娘」の末っ子として愛され、読み間違いを芸に変え、バブルの空気を誰よりも楽しんだ人。
その一方で、売れている最中に立ち止まり、勉強のために芸能界を離れることもできる人。
天然に見えて、実はいちばん自分を分かっていたアナウンサー。
それが、若い頃の有賀さんに対するごしこの印象です。
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