「ひまわり娘」「木枯しの二人」「乙女のワルツ」「きみ可愛いね」。
1970年代、テレビの歌番組をつければ、ミニスカートで元気いっぱいに歌う丸顔の少女の姿がありました。
けれどその少女は、一度オーディションに落ちていたことをご存じでしょうか。
両親には反対され、「もう1回だけ」という条件つきでようやくつかんだ再挑戦のチャンス。
そこから15歳の少女は、わずか2年ほどでNHK紅白歌合戦の舞台にまで駆け上がっていきます。
本日の記事では伊藤咲子さんの若い頃について調べてまとめてみました。
この記事を読めば、下記の内容について、知ることが出来ます。
- 一度落ちた15歳が「370点」で大逆転!「スター誕生」の知られざる舞台裏とは?
- 巨匠・阿久悠さんの髪を引っ張った!?売れっ子時代の意外すぎる素顔とは?
- 指輪をはめて頬を叩かれた!?城みちるさんとの秘密の恋の行方とは?
それでは、どうぞ!


伊藤咲子の若い頃|トイレで開いたミニコンサートから「スター誕生」へ
伊藤咲子さんは1958年4月2日、東京都目黒区の生まれです。
とにかく歌が大好きな少女で、中学の休み時間にはトイレに友人たちを集め、ミニコンサートを開いていたといいます。
当時のヒット歌謡曲は、ほとんど歌えてしまうほどだったそうです。
友人たちに背中を押されて「スター誕生!」に応募ハガキを出したものの、本人はそのことをすっかり忘れていたとか。
予選出場の通知が届いたのは、応募から1年近くたってからでした。
しかも予選は4日後で、両親には何も話していなかったといいます。
一度目は不合格…「101点」で味わった挫折
応募者は数百人。1回目の予選で約100人、2回目で14人に絞られ、この14人がテレビ予選に進みました。
咲子さんが歌ったのは、小柳ルミ子さんの「漁火恋唄」。
結果は101点で不合格でした。

本人は「覚悟はしていました」と振り返っています。
審査員の松田トシさんからは「あなた、息が漏れてるわ」と指摘されたそうです。
十代の少女にとって、全国放送のテレビで評価を突きつけられる経験は、相当に重かったのではないでしょうか。
それでも「覚悟はしていました」と言い切れるあたりに、のちに第一線で戦い続ける芯の強さが、すでに表れていたように感じます。
「池文さん」の一言と、両親への「もう1回だけ」
転機は、名物プロデューサーの池田文雄さん(愛称「池文」)からの声かけでした。
「ハガキ応募はしなくていいから、もう一回来ないか」。
ところが両親は「もう高校受験のことを考えなさい」と猛反対。
「もう1回だけ」という条件で、ようやく許してもらえたそうです。
再挑戦の日、不合格だった5人のうち、会場に来たのは咲子さんだけだったといいます。
もしこの日、両親の説得に失敗していたら、あるいは会場に足が向かなかったら。
「ひまわり娘」は世に出ていなかったかもしれないと思うと、運命の分かれ道だったことを実感します。
朱里エイコの曲で「370点」の大逆転
再挑戦で選んだのは、朱里エイコさんの「見捨てられた子のように」でした。
前の年、毎週のように「スター誕生!」を見ていた咲子さんは、ゲスト出演した朱里さんのパンチのある歌と、ミニスカートから伸びる脚を見て「カッコいい!」と衝撃を受けたそうです。
15歳には歌詞が大人っぽすぎて、意味もよく分からなかったと、本人は笑って振り返っています。
それでも、エレキギターとホーンセクションで始まるモダンな曲調に惹かれ、朱里さんの歌い方をまねして挑みました。

合格ラインは250点以上。前回101点だった咲子さんは、なんと370点をたたき出し、決戦大会へ進みます。
当時は天地真理さんなどのアイドルソングや、森昌子さんの曲を歌う人が多く、この曲を選んだ女の子は自分だけだったのでは、とも語っています。
周りと同じ土俵で戦わず、あえて大人びた難曲で勝負に出た判断が、結果的に審査員の耳に強く残ったのでしょう。
一度の失敗から「選曲を変える」という修正力を見せたところに、咲子さんの賢さも感じます。
決戦大会|12番目、泣き崩れたプラカード
決戦大会に残ったのは12人。咲子さんは12番目に歌いました。
スカウトの意思表示となるプラカードは、1番から4番まで連続で上がります。
「これで終わったと思った」と本人。
5番から11番まではプラカードが1枚も上がらず、咲子さんはお立ち台で号泣してしまいます。
ところがそのあと、プラカードがいくつも上がり、再び号泣したそうです。
客席のレコード会社やプロダクションなど、約11社が手を挙げたと伝えられています。
なお、この大会を「優勝」と紹介する資料もありますが、スタ誕は順位を競う形ではなく、スカウトのプラカードで進路が決まる仕組みでした。
決戦大会に残った出場者はホリプロとサンミュージックのレッスンに通うことができ、自宅がホリプロに近かった咲子さんは毎日通ったそうです。
のちに「『スタ誕』がなかったら今の私はいなかった」と感謝を語っています。
1974年「ひまわり娘」でデビュー|阿久悠さんの髪を引っ張った伝説
1974年4月20日、東芝EMIから「ひまわり娘」でデビューします。作詞は阿久悠さんです。
デビュー曲がそのままキャッチフレーズになり、咲子さんはアイドルの仲間入りを果たしました。

売り出し当初は、全身を黄色でそろえた衣装を着ることになり、本人はとても恥ずかしかったそうです。
ミニスカートに丸顔というルックスと、本格派の歌唱力とのギャップも話題になりました。
「おまえは金のかかる女だなあ」…阿久悠さんとの思い出
日本経済新聞のインタビューで咲子さんは、中学3年生、15歳のころに阿久悠さんから「おまえは金のかかる女だなあ」と言われたことがあると明かしています。
同じインタビューでは、阿久さんから化粧バッグを贈られたエピソードや、「ひまわり娘」に込められた願いにも触れられているようです。
厳しいだけでなく、デビューしたての少女を気にかけていた阿久さんの姿が浮かんできます。
そんな阿久さんには、こんな有名な逸話もあります。
2017年8月、フジテレビ系「バイキング」に出演した岩崎宏美さんが、阿久悠さんのカツラ疑惑を明かしました。
当時の阿久さんは、長髪にパーマをかけた通称「ライオンヘア」。アイドル歌手たちの間で「実はカツラなのでは」という噂が広まったそうです。
確かめようと、じゃんけんで負けた人が阿久さんの後ろに回り、髪を引っ張ることになりました。
そこで負けたのが、咲子さんでした。
咲子さんが引っ張ると、阿久さんは「イテッ」と声を上げたそうです。岩崎さんは「カツラでなくてよかった」と振り返っています。
作詞の大御所を相手に、じゃんけんで負けたとはいえ本当に髪を引っ張ってしまうのですから、驚きです。
緊張感のある現場だけでなく、こうしたいたずらを笑って許してくれる関係性があったからこそ、少女たちは伸び伸びと成長できたのかもしれませんね。
堀越高校とアイドル全盛期|机の上は教科書より楽譜と台本
咲子さんが通ったのは、芸能コースのある堀越高校でした。
林寛子さんや大場久美子さんなど、同世代のアイドルが数多く在籍していたことで知られています。
その中でも、岩崎宏美さんと池上季実子さんとは、卒業から40年以上たった今も「45年来の親友」という間柄です。
下校の時間になると、校門前には各自のマネージャーの車がずらり。
月曜には「紅白歌のベストテン」や「夜のヒットスタジオ」などの歌番組があり、咲子さんは宏美さんと校門で別れても、テレビ局でまた顔を合わせることが多かったそうです。
咲子さんの机には、新曲の歌詞、他の歌手の楽譜、バラエティ番組の台本が山積みで、教科書は積まれていなかったと笑って振り返っています。
芸能コースで勉強もできたのは片平なぎささんで、レポートもきちんと提出していたそうです。
一方の咲子さんたち3人は「リポートはま、いっか!」という感じだったとか。
毎日が歌番組と収録に追われる日々だったと思うと、勉強どころではなかったのも無理はありません。
それでも卒業後40年以上続く友情を育めたのは、同じ時代を全力で駆け抜けた「戦友」だったからなのでしょう。
「木枯しの二人」「乙女のワルツ」…ヒット連発
1974年12月、第3弾シングル「木枯しの二人」を発売します。作詞は阿久悠さん、作曲は三木たかしさん。咲子さんの歌の中で最も売り上げ枚数を伸ばした大ヒット曲となりました。
オリコンの1975年年間ランキングでは36位に入っています。

続く1975年7月発売の「乙女のワルツ」では、日本テレビ音楽祭の金の鳩賞を受賞しました。
この曲の制作秘話は、別の記事で詳しくご紹介しています。
スタ誕出身の同期には、森昌子さん、山口百恵さん、桜田淳子さん、岩崎宏美さんといった顔ぶれがそろっており、まさにアイドル戦国時代でした。
その中で、デビューからわずか1年足らずで次々とヒットを重ねたのですから、実力が評価されていたことは間違いありません。
1976年「きみ可愛いね」で紅白歌合戦に初出場
1976年、「きみ可愛いね」が大ヒット。第27回NHK紅白歌合戦に初出場を果たします。
オーディションに一度落ちてから、およそ3年。デビューからは約2年半での晴れ舞台でした。
東京新聞の連載「私の東京物語」でも、この出来事は「念願の紅白出場」と題して振り返られています。
両親に反対されながら「もう1回だけ」と挑んだ少女が、日本中が見守る大みそかのステージに立つ。
この展開を知ってから当時の映像を見ると、笑顔の奥にあった感慨を想像せずにはいられません。
10代の秘密の恋|城みちるさんと「歌か恋か」
実は、咲子さんの若い頃を語るうえで外せないのが、城みちるさんとの恋です。
城さんも「スター誕生!」の出身で、1973年12月に「イルカにのった少年」でデビュー。咲子さんと同じ堀越学園に通い、同じレコード会社に所属していました。
10代の人気アイドルにとって、恋愛はご法度とされた時代です。
目くばせと長電話…アイドルの秘密のデート
咲子さんは、姉と暮らす城さんの部屋に遊びに行き、勉強を教えてもらうこともあったそうです。
忙しくて会えない日は、同じ番組に出演した際に目くばせをして気持ちを確かめ合っていました。
地方の仕事先ではホテルの部屋の電話でデートを重ね、長電話の料金はチェックアウト時に自腹になるため、「今日は僕から」と交代でかけていたといいます。
石川ひとみさんは、携帯電話のない時代に「アイドル同士の恋愛なんて無理だった」と語ったと伝えられています。
そんな状況で電話代を割り勘にしながら想いをつなぐ二人の姿は、現代の恋愛とは違った切なさを感じさせます。
左手の薬指の指輪と、三木たかしさんの平手打ち
咲子さんは、城さんからもらった指輪を左手の薬指にはめていました。
付き合っていることは隠さなければならないのに、です。
作曲家の三木たかしさんは「結婚してないのにおかしいよ」と注意しましたが、咲子さんは「ハーイ、すみません」と軽く受け流してしまいます。
ある日、ショー出演のために三木さんと浜松へ向かう待ち合わせで、咲子さんは指輪をはめたまま現れました。三木さんは丸めた雑誌で咲子さんの頬を叩いたと伝えられています。

「ファンに夢を与える仕事をしているのに、指輪をしたままステージに上がるつもりか」というのが叱責の理由でした。
咲子さんは「何コレ?と思いました。親にも叩かれたことないのに」と怒り心頭だったそうです。
この出来事のあと、咲子さんと城さんは一切口をきかなくなってしまったといいます。
三木さんの言い分はプロとして筋が通っている一方で、10代の少女にとっては初めて味わう理不尽な痛みだったのでしょう。
「親にも叩かれたことないのに」という言葉に、当時の怒りと動揺がそのまま詰まっているように思います。
「恋をとるか、歌をとるか」…1979年の決断
咲子さんは1978年12月から芸能活動を休止しており、事務所とレコード会社から「恋をとるか、歌をとるか」を迫られていたと伝えられています。
結論が出るまで仕事は入れない、と言われていたそうです。
1979年3月16日、東京・溜池のレコード会社で会議が開かれ、咲子さんは約3カ月後に恋人との別れを決めたと報告します。
2時間の話し合いの末、歌手活動の再開が決まりました。
城さんはその後いったん芸能界を離れて大学へ進学し、実家の電器店を継ぐため広島へ帰郷。二人の恋は終わりを迎えます。
約10年後、偶然同じ新幹線に乗り合わせた二人は、そこで和解したそうです。
そして2012年11月、26年ぶりに復活した「レッツゴーヤング」のコンサートで、咲子さんは城さんと共演。会場で笑顔のまま「私たち付き合っていました」と明かしました。
別れから30年以上。今も咲子さんは城さんを「みちるは心の友。心友(しんゆう)」と呼んでいます。
日刊ゲンダイの連載「光と影のアイドル群像」では、伊藤さんと城みちるさんの10代の恋や、三木たかしさんに叱られたエピソードが詳しく紹介されている(日刊ゲンダイDIGITALより)。
歌手として絶頂期にあった少女が、恋を手放して歌を選んだ。「歌か恋か」の選択こそが、伊藤咲子さんのその後の長いキャリアの出発点だったのかもしれません。
個人的には、休業にまで追い込まれたのに、その後も二人が「心友」として舞台に立ち続けているところに、胸が熱くなります。
別れた相手と何十年も経ってから笑って共演できるのは、お互いが相手の人生を尊重してきた証拠なのではないでしょうか。
この後1989年に結婚を機に一度は歌手活動を休止することになりますが、その波乱の人生はまた別の記事で詳しくお伝えします。
伊藤咲子さんの乙女のワルツについての記事と、現在についての記事も書いています!ぜひご覧ください↓


まとめ
ここまで、伊藤咲子さんの若い頃について、スター誕生から紅白初出場までの軌跡を見てきました。
一度は101点で落ちながら、選曲を変えて370点を叩き出した逆転劇は、まさに咲子さんの賢さと度胸を物語っています。
阿久悠さんの髪を引っ張るお茶目さや、城みちるさんとの切ない恋など、華やかな表舞台の裏に等身大の十代の姿がありました。
次の記事では代表曲「乙女のワルツ」に隠された制作秘話を詳しく掘り下げていきます。
今後もさらなる伊藤咲子さんの情報が入り次第、追記していきますね。
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